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インタビュー 美術館・博物館から見る“空知” ~第1回 夕張市美術館 元館長 上木 和正さん~

上木 和正さん(夕張市複合拠点施設「りすた」で開催された「第50回雪月花展」にて)

夕張市は文化活動がさかん

―上木さんは、夕張市美術館の元館長と伺っています。

上木さん 定年退職して11年になります。現在は、美術館のコレクションの管理などに協力しています。美術館は、2012年になくなってしまいまして、それから毎年のように、鹿追町の神田日勝記念美術館を皮切りに、ニセコ町の有島記念館や、岩内町の木田金次郎美術館など、道内の美術館へ収蔵品の貸し出しをしてきました。美術品は、炭鉱絵画としてとても価値のあるものです。
夕張市は、絵画以外の分野でも文化活動がさかんに行われてきました。今は人口が少なくなって、活動の中心は80代、90代と年齢層が上がり、そして少しずつ亡くなっているのが現状です。今年で最後かな、来年できるかな、というのも懸念材料です。

―私の父方の祖父は、阿寒の雄別炭鉱で仕事をしていました。母方の祖父は泊村の茅沼炭鉱の変電所に勤務したことがあります。北海道出身者は、親戚や隣近所を見回してみると必ず炭鉱関係者がいる、なんてことも言われます。それだけ大勢の人が炭鉱で働いていたということなのでしょうね。

上木さん そうですね。炭鉱町には人が集まるから芸術や食などの文化も発達しました。炭鉱マンはぜいたくで、結構惜しみなくお金を使うというか。それが今日の空知のワインや肉料理などの食文化にもつながっているのでしょう。そして、北海道では、地のものを結構食べますよね。それが、夕張メロンや長芋のような特産物を育ててきたと思っています。

上木さんと夕張市美術館

―上木さんご自身は、出身はどちらですか。

上木さん 私はここ、夕張市の清水沢出身です。10歳の頃、1960年頃が夕張市の人口のピークで、学校も50人のクラスが学年に8つもある北海道一のマンモス校がありましたね。今では、全校生徒171人の小学校が市にひとつです。何しろ高齢者比率が日本一ですから。

―美術館でお仕事するようになったきっかけは。

上木さん 民間でグラフィックデザインの仕事をしていたのですが、1987年に東京での生活を切り上げて夕張市へ戻ってきました。その頃、ボーリング場を改装して美術館をオープンする話があり、ちょうど私の専門分野だったので、職員として勤めることになりました。それから定年まで、夕張独自の炭鉱絵画に特化した展覧会などを企画し、道内の他の美術館・博物館や学芸員、作家との交流も広がりましたね。夕張市には、道展のベテラン会員4~5人のほか、力量のある作家がいました。地元でコレクションした作品だけで展覧会ができるという、恵まれた環境にあったのです。
それが、2007年の夕張市の財政破綻により、美術館を維持するのが困難になってしまって。それでも、民間企業へ管理を委託する形で毎年4月から10月末まで開館していたのですが、2012年2月の大雪で、美術館の屋根が潰れてしまいました。幸い、作品は地下収蔵庫に保管していて無事でした。
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夕張市美術館(1988年~2012年)

―今、作品はどうなっているのでしょうか。

上木さん 中学校の空き教室で保管しています。常設展示する場所がなく、公民館などで工夫しながら公開してきました。ここ「りすた」は、夕張市が財政破綻して以降、初めて整備した公共施設です。ギャラリースペースはあるのですが、ガラスが多い開放的な空間である一方、絵画を展示するとなると、場所によっては採光による劣化が心配されたり、大きい作品の展示に耐えられるような壁面をいかに確保するかなど、展示環境をいろいろ工夫する必要もあるのです。
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開放感あふれる夕張市の複合拠点施設「りすた」の内観

―Withコロナの時代になって、Web上で作品を公開したり、バーチャル美術館を開設したりする美術館・博物館も増えましたが、同じ作品でも、空間の取り方や配置のしかた、作品のセレクトなどには美術館ごとの個性が出ますよね。そこには作品を二次元で観るだけでは感じられない面白さ、奥深さがあるように思うのですが。

上木さん そうですね。足を運んで来て観る感動というのが美術館にはある。時間軸でいうと、感動というものは、見終わった後にじわじわと現れてくる。熟成する期間とでも言うのかな、そういうものがあると思っています。

炭鉱芸術、炭鉱絵画の魅力

―「炭鉱絵画」というのは、ひとつのジャンルになるのでしょうか。

上木さん 岩内町で活動した木田金次郎が漁師画家と言われたように、炭鉱で働いていた人が筆を取ったり、あるいは炭鉱を題材とする作品であったり。そういったものが「炭鉱芸術」「炭鉱絵画」として認知されてきていると思います。
2009年に東京の目黒区美術館で、炭鉱に特化した特別展が開催されました。絵画のほか、写真や彫刻も展示して、炭鉱が文化資源として評価されました。一地方都市の美術館だからこそ、こうした特色ある取組みもできるのです。
現場で働いていた人こそが、炭鉱の何たるかを一番詳しく知っている訳ですが、夕張市で最後の炭鉱が閉山されたのが1989年。昭和が遠くなり、今は石炭さえ見たことのない人の方が多い時代です。炭鉱ならではの食文化や絵画は、今の私たちが炭鉱に触れることのできるツールでもあるのです。
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(左)2014年に木田金次郎美術館で開催された夕張市美術館コレクション展
(右)2006年に夕張市美術館で開催したヤマのグラフィック 炭鉱画家の鉱脈展

―最盛期の炭鉱町では、購買に行けば様々な商品にあふれ、最新の映画や演劇が上映されていた。日本で最も早くに鉄筋コンクリートの建物が普及したのも炭鉱町で、いわば時代の最先端を行っていた訳ですよね。

上木さん たくさんの商店にお寺、燃料店もありましたね。昭和30年代、テレビは夕張市で全国一売れたと聞いています。炭鉱は、そこで働く人がいないと成り立たない産業です。大勢の人が集まったからこそ、まちも賑わいました。作家や画家などもまた、空知地域、夕張市にやってきましたね。短期滞在も含めると、かなりの数になるはずです。夕張出身という人は多いですよ。何しろ、高校が多いときで6校くらいありましたから。部活動では、グラウンドに空きがなくて、取り合いになりました。
美術館の収蔵品には写真もあって、炭鉱住宅を被写体にした圧巻の作品もあります。人と物資にあふれ、輸送も盛んだった。それが、炭鉱の閉山で激減してしまいました。この先、人口は増えないだろうけれど、それでも今、ここに住み続ける人は確実にいるのです。

―せっかくの作品、より多くの人に見てもらいたいですね。

上木さん 絵画専用の展示スペースを確保するのは、今の夕張の経済力では難しいでしょう。既存のスペースをどう活用するか、ですね。
炭鉱絵画に見られる独特のタッチは、その時代の住居や構造物がまだ残っていた頃に描かれていて、なかなかのものです。作品と併せて、当時を知る人の肉声にも触れられると良いのですが。数年前に、地域おこし協力隊が聞き取りをしていましたので、それを資料としてまとめ、絵画と一緒に紹介できると良いのではないかと思っています。

無理なく続けること、続けられることが、人に、明日につながっていく

―個々のものの素晴らしさを、うまくつなげて発信していくということは、どうしても認知度が低いと言われる、空知にも共通する課題です。

上木さん いつだったか、岩見沢市内の万字や美流渡地区を通ったとき、移住してきた人を見かけました。以前からそういう人はいたけれども、果たして10年後、そこに定着しているでしょうか。活動的な人は、もっと良い土地を求めて行ってしまうかもしれません。せっかく移住しても、行政の協力や地域の支援が切れてしまって、結果として定住につながらなかったという話も聞きます。
何事も、新たに立ち上げ、常に良いものを追い求め続けるのは、結構大変です。ここにしか居場所がないという人の方が、手厚くはないかもしれないが、長い息で応援してくれるのかもしれません。悪い意味ではなく「いい加減」というか、無理なく続けること、続けられること。それが人をつなげ、時代を超えて受け継いでいくことにつながるのではないでしょうか。
  
―地方創生、地域活性化がずいぶんうたわれていますが、地域に根ざしている人が受け入れ、つながってこその地域活性化ではないかなと。そういう意味でも、過去からつながってきて今ここにある、芸術や食などの文化はまさに、夕張であったり、空知であったりの大きな財産であり、魅力のひとつだと感じています。

上木さん 明治以降、北海道は炭鉱を拠点に発展してきた。特に空知は、それぞれのまちに特色があって、プライドもある。だから協力して何かやろうという考えはあまりなかったのでしょうね。以前は、空知のワインで地域を盛り上げる、なんて考えもつかなかった。
その土地、風土に合った作物を使って、それを原材料として丁寧に作っているから、やはりおいしい。空知には季節ごとに地域資源に恵まれているので、個人的に楽しみつつ、それを人に知らせ、分かち合い、広げてつながっていく。そういう価値観の時代になってきているように感じます。

―上木さんの夢といいますか、これから取り組みたいことなど、お聞かせいただけますか。

上木さん ギャラリーを作りたいですね。管理しやすいように、自分の家の近くがいいかな。建築や土木を学んでいる大学生など、夏休みにでも若い人に手伝ってもらって、数年計画で実現できればいいな、なんて思っています。

※ 上木さんへのインタビューにあたっては、夕張市教育委員会に画像提供などのご協力をいただきました。ありがとうございました。

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