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インタビュー 美術館・博物館から見る“空知” ~第4回 滝川市美術自然史館~

空知地域のあゆみや文化・芸術を、美術館や博物館、アートギャラリーを通じてご紹介するシリーズ「インタビュー 美術館・博物館から見る“空知”」。今回は、「滝川市美術自然史館」の皆さんにお話を伺いました。
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【左から河野敏昭さん、永井芳仁さん、藤本敦美さん、村澤由香里さん】

「美術」と「自然史」

はじめに、こちらの施設がつくられたきっかけを教えていただけますか。

河野敏昭さん 滝川市では1977年(昭和52年)に郷土館が開館したあと、滝川市江部乙町出身の日本画家・岩橋英遠さんをはじめとした郷土出身の芸術家の活躍を受け、郷土美術館建設の機運が高まっていました。そうした中で、1980年(昭和55年)に、滝川市内を流れる空知川の河床から、タキカワカイギュウの化石が発見され、調査の結果、新種であることが判明し、1984年(昭和59年)には北海道天然記念物に指定されました。このことをきっかけに美術と自然史の2つの部門を備えた博物館にしよう、ということになり、この「滝川市美術自然史館」が1986年(昭和61年)に開館しました。

道内には、美術館や科学館、郷土資料館といった施設がたくさんある中で、「美術自然史館」というのは少し珍しい名称かなと思っていたのですが、そのような理由があったとは。

河野さ はい。そのようなコンセプトのもと、美術部門では滝川ゆかりの方の作品を、自然史部門ではタキカワカイギュウを軸として地球の成り立ちについて関心を持って学んでいただけるような資料を展示しています。

-岩橋英遠さんの絵画に、タキカワカイギュウの化石。どちらも大切にしていこう、という皆さんの想いが「滝川市美術自然史館」の開館へとつながったのですね。

レプリカづくりも市民の手で

-空知川の河床から化石が見つかったということでしたが、このあたりは地質的に、化石はよく発見されるのでしょうか。

村澤由香里さん 結構発掘されていますね。タキカワカイギュウの化石は、赤平市在住の愛石家の方が、夏場、雨が少なくて川の水が干上がっていた時にめずらしい石を探していて見つけたと聞いています。展示室には、化石のレプリカとタキカワカイギュウの復元模型の他、地球誕生から人類の出現まで化石のレプリカや骨格標本を中心にご紹介しています。
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【自然史部門の展示室の様子】
 
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【タキカワカイギュウの全身骨格標本(中央上)と、生体復元模型(中央下)】

-こうして見ると、タキカワカイギュウ。大きいですね。

村澤さん 全長約7メートルあります。ほぼ全身の骨格が発見されたからこそ、早い段階でその全体像がわかったようですね。

-ところで、これは複製ですよね。本物の化石は、どちらに。

村澤さん 収蔵庫で大切に保管しています。実は、発掘・調査・研究からレプリカづくり、展示に至るまでの一連の作業を、市内の小中高校の理科の先生が中心となって発掘を行ったり、研究者を招へいしたりして、すべて地元で行ったのです。特にレプリカの制作に関しては「滝川方式」として世界的にも知られることとなりました。
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全身骨格標本の下に展示されているタキカワカイギュウの化石(レプリカ)】

-それはすごい。協力した皆さんにとっても、貴重な体験ですね。

村澤さん 一般的には調査研究やレプリカの制作を大学や研究機関にお願いするケースも多いようです。ただ、そうした場合、化石は地元を離れ大学などに収蔵されてしまうことも少なくないと聞いています。滝川市内で発見された貴重な化石ですから、やはり自分達の手で次の世代へ伝えていきたい。そんな市民の皆さんの想いが、貴重な資料の収集・保存はもとより、今日に至るまで当館の活動を支えてくださっていると思っています。

日本画家・岩橋英遠

-美術部門では、岩橋英遠さんの作品を数多く収蔵されているそうですが、ほぼ同時代に活躍していたのが片岡球子さん。英遠さんと同じく北海道の出身で、日本三大女流画家のひとりでもあります。ただ、北海道の人って、片岡球子さんは知っていても、意外と英遠さんのことは知らないようで、少し残念に思っているのです。

藤本敦美さん 英遠さんは、1903年(明治36年)、江部乙で屯田兵の二世として生まれました。翌年、屯田兵制度は廃止になるのですが、家業の農作業をよく手伝っていたと言われます。21歳のときに絵の勉強のために上京し、後には歴史画で有名な日本画の大家・安田靫彦にも師事しました

-安田靫彦さんは「飛鳥の春の額田王」などの歴史画で有名で、教科書にも載っていました。そんな素晴らしい先生について画業を積まれたのですね。

藤本さん 英遠さんご自身、戦後の日本画壇を代表する画家で、1994年には文化勲章も受けた方です。北海道の風景を描いた神秘的な作品を多数制作していますちょうど今、展示している「雪戦会の日」、これは母校の北辰尋常高等小学校(現・江部乙小学校)の行事を描いた作品で、江部乙小学校に寄贈されました
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【岩橋英遠作「雪戦会の日」1973年(滝川市美術自然史館ご提供)】
-子どもたちの冬の一日を、とても優しい視線で描いているというか、ご自身の小学校時代の思い出を垣間見ている気がします。

藤本さん 英遠さんは、「私の育ったところから見回した四方の山のたたずまい。木のかたち、空、雪の世界から出ることができないでいる。」という、とても印象的なことばを残しています。滝川市を離れても、ふるさとへの想い、北海道への想いをずっとお持ちだったようですね。それが作品にもよく現れていると思います。

-以前、ある画家の作品が見たくて、ゆかりの美術館を訪ねたところ、他の地方で開催中の特別展へ多数の作品を貸し出し中とかで、結局1点も見られなかった…なんてことがあって、とてもがっかりしました。英遠さんの絵は、ここに来るといつでも鑑賞することができるのでしょうか。

藤本さん 当館には、2階にギャラリースペースが3室あって、貸館も行っています。必ず…とは言えませんが、英遠さんの作品はできる限り展示するようにしています。特別展を開催することもありますので、ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思っています。

様々なコレクション、多彩なゆかりの文化人

-もうおひとり、江部乙ご出身の著名な画家がいますよね。洋画家の一木万寿三さん。岩橋英遠さんの1つ下の学年で、しかもお隣に住んでいたそうで。

藤本さん はい。北海道の洋画界の重鎮ともいうべき方で、江部乙の林檎園の風景などを数多く描いています。当館では一木さんの絵画も多数収蔵していて、定期的に展示を行っています。

-奥様は、俳人の榛谷(はんがい)美枝子さんでしたよね。榛谷さんは、「リラ冷え」という言葉を生み出した方※で。それと、今ギャラリー展示を行っている上田桑鳩さん。空知は道内においても非常に書道が盛んな地域だと聞いています。この方も、滝川市にゆかりのある方なのでしょうか。

※「リラ冷え」と榛谷さんについては、こちらの過去記事もご覧ください↓
“リラ冷え”の小さなまちから~滝川市江部乙町ゆかりのことば~

藤本さん 近代書家の上田さんは滝川のご出身ではないのですが、滝川の書家の方と交流があって、毎年滝川市を訪れて作品を残していかれたようです。そのご縁から滝川に桑鳩作品が多く伝わり、コレクション当館で収蔵するにいたりました。現在は「一文字展」。コレクションの中から、紙一枚に一字を書き作品とする「一字書」を選んで、展示しています。
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【上田桑鳩 一文字展】

-書というより、まるで絵画のようです。数ある作品から、テーマを設けてセレクトして見せていただけるというのも、とても興味深いですね。

藤本さん 館内の2階には、女優や司会者・作家として活躍されている黒柳徹子さんのお母様、黒柳朝さんから寄贈を受けたアンティークコレクションの数々を展示しているコーナーもありますよ。黒柳朝さんは、滝川出身で、滝川市名誉市民でもあります。自伝エッセイ「チョッちゃんがいくわよ」はNHK朝の連続テレビ小説「チョッちゃん」(昭和62年(1987年)放送)にもなりました。他に多数の著作でも知られていますね。
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【チョッちゃんアンティークコレクションのコーナー】

-それにしても、滝川市は早くから様々な文化人を輩出されていますね。芸術の素地が充実しているというか、文化活動がさかんに行われてきたまちだということを改めて感じました。

東洋一の人造石油滝川工場

-特別展は、年に何回くらい開催されていますか。

永井芳仁さん ここ数年は、年1回開催しています。ちょうど6月18日から、今年度の特別展が始まったところです。

-それが、「石油ヲ造レ―東洋一の人造石油滝川工場―」ですね。
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特別展「石油ヲ造レ―東洋一の人造石油滝川工場―」リーフレット】

-昭和10年代に、このような巨大な設備を備えた工場が滝川市にあったとは驚きです。人造石油の製造はやはり、戦時下に国策で行われていたということなのでしょうか。

永井さん そうですね。諸外国との戦争へと進んでいく中で、石油燃料の製造が政策として具体的に進められていきました。資金調達などを目的とする半官半民の株式会社が設立され、滝川工場はその会社から出資を受けて建設されています。建設にかかった経費は、今のお金に換算すると約1兆円にのぼるといわれていますね。工場の稼働は昭和16年(1941年)。その翌年の12月21日に、人造石油は初出荷を迎えます。本格的な出荷が始まったのは、その約2カ月後の昭和18年(1943年)2月です。

-以前、こちらの特別展で、当時出荷された人造石油の製品ラベルを見たことがあります。高級感漂う、とてもおしゃれなデザインで印象に残っています。

永井さん 製造に至るまでに、巨費を投じた高級燃料でしたからね。今回の展示では、実際に滝川の工場で製造された人造石油もご覧いただけますよ。
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【人造石油の製品ラベル。左:高級ディーゼル油「くろゆり」、右:灯油「こざくら」(滝川市美術自然史館ご提供】

永井さん 最盛期には、2,200人の従業員がいたそうです。ちなみに、当時の滝川の人口は、工場建設が始まった昭和14年(1939年)で14,000人くらい。それが、人造石油工場がきっかけとなって急増し、終戦の頃には約24,000人にまでなったようです。

-人口の約1割が、その工場で働いていたと。

永井さん その頃は、子どもが何人もいる家庭が多かったでしょうから、工場の関係者だけで10,000人くらいになったのではないかと推測しています。総人口の半数近くですよね。全国の大学に募集をかけて優秀な人材を技術者として採用し、従業員は各地の農家の次男や三男が採用されて、ぞくぞくと滝川にやってきたそうですよ。

-それまでの滝川は、どのようなまちだったのでしょう。農業は戦前からさかんに行われていたと思うのですが。

永井さん 農業に加えて、商業のまちでしたね。鉄道や国道が交差する交通の要衝ですから。戦後、周辺地域の炭鉱が発展する中で、滝川の人口は更に増えていきました。休日に炭鉱町から滝川へ出かけてきて、買い物をする人が多かったようです。

-炭鉱とともに発展したまちは北海道内、特に空知地域にも数あると思うのですが、そうした中で、炭鉱のない滝川は、また少し違った軌跡をたどってきたということでしょうか。

永井さん 滝川には炭鉱こそありませんでしたが、数多くの炭鉱を有する中空知エリアの中心的なまちだったからこそ、人やモノの流れが活発で、石炭から石油を造る工場もここに建設されたのでしょうね。
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【750分の1サイズの工場のジオラマ(滝川市美術自然史館ご提供)】

-工場そのものは、その後どうなったのですか。

永井さん 昭和20年(1945年)の終戦を機に、いったん閉鎖されました。当初計画では、年間23万キロリットルという生産目標を掲げていたのですが、結局、稼働していた約3年の間に製造された人造石油は、1万4千キロリットル程度にとどまったともいわれています。工場はその後、翌21年(1946年)に民間の化学工場としてコールタールやナフタリン、コークスなどの製造販売を開始したものの、昭和27年(1952年)に経営破綻し倒産しました。工場の設備はほとんどが解体・撤去されていますが、敷地の一部は、現在、陸上自衛隊滝川駐屯地となっていて、当時の研究所は現在も本部隊舎として使われています。

-巨大な工場も、今となってはほとんど痕跡がないのですね。

永井さん 人造石油工場は国内に18カ所開設されたそうですが、空襲を受けるなどしてその多くは失われています。このため、滝川市の人造石油関連の資料は、現存するとても貴重なものばかりなのです。それが評価されて、昨年9月、国立科学博物館により重要科学史資料に登録されました。戦前から戦後にかけての滝川のまちの発展を顧みる上で、工場の存在、人造石油が果たした役割は大きなものだったといえます。今回の特別展では、そんな滝川市の軌跡に触れていただけたらと思っています。

-特別展の期間中は、イベントなども企画されているとか。

永井さん はい。講演会は終了しましたが、7月9日(土)に、当館学芸員によるギャラリートークや、7月30日(土)には、ワークショップ「石炭を燃やしてみよう」を開催します。

-今の時代、30歳代の人でも「石炭を見たことがない」という方が結構いらしゃいますね。

永井さん 炭鉱に人造石油。滝川市のあゆみと深く関わってきた石炭がどのようなものなのかを知っていただくいい機会になればと思っています。実際に持ってみたり、火をつけてみたり。夏休み期間中でもありますので、子どもさんたちもぜひご参加いただきたいですね。

滝川市美術自然史館のこれから

-今後、この美術自然史館のあり方といいますか、どのような活動をしていきたいとお考えでしょうか。

永井さん 滝川市に限らず、道内の数多くの市町村は今、人口がどんどん減っていて、博物館のような公共施設、文化施設をいかに維持していくか、なかなか大変な状況に直面していると思うのです。そうした中にあっても、地域の個性や特性に触れ、親しみ、そしてともに守り伝えていく。博物館が果たすことのできる役割はそこにあると考えています。

河野さん タキカワカイギュウも、英遠さんの絵画も、人造石油も、滝川の風土の中で生み出されてきた大切な宝物です。これからも市民のみなさんと一緒に、大切にしていきたいですね。

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