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インタビュー 美術館・博物館から見た空知  ~第2回 夕張市美術館 元館長 上木 和正さん(炭鉱絵画のご紹介)~

本物の炭鉱絵画に触れる。

「インタビュー 美術館・博物館から見た空知」。第1回(2021.07.08)では、夕張市美術館の元館長である、上木和正さんにお話を伺いました。
詳しくは過去記事をご覧ください↓
インタビュー 美術館・博物館から見た空知 ~第1回 夕張市美術館 元館長 上木 和正さん~

簡単におさらいしますと…
「炭鉱芸術」「炭鉱絵画」とは、炭鉱で働いていた人による、あるいは炭鉱を題材とする絵画、写真、彫刻などを指し、最盛期の炭鉱の風景や人物を描写した力強く独特のタッチを持つ作品が多いのが特徴です。
夕張市教育委員会では、夕張市美術館(2012年閉館)が収集した「炭鉱芸術」のコレクションを約500点所蔵しています。

しかし、夕張市美術館の閉館後、これらの収蔵作品は常設展示の場を失ってしまいました。翌2013年からは毎年のように、道内の美術館等で夕張市美術館所蔵作品の企画展が行われてきたため、作品に触れる機会はあったのですが、2020年度以降は新型コロナウィルスの影響を受け、それもままならない状況が続いています…というお話を、前回のインタビューの際に、上木さんと夕張市教育委員会から伺いました。

この貴重な地域資源である「炭鉱絵画」の存在を広く知っていただきたい。コロナ禍で埋もれてしまうのは、あまりにもったいない。
そんな思いから、空知総合振興局では、炭鉱絵画を1点お借りして、展示することにしました。
夕張市教育委員会からお借りした作品はこちら。
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二番方入坑時繰込(にばんかたにゅうこうじくりこみ)

絹本・岩彩
1950年代
夕張市教育委員会蔵(旧夕張市美術館)

炭鉱全盛期の入坑前の繰込所を描いた貴重な作品で、鉱員で混雑する様子がイラスト的なタッチで表現されています。当時は一日三交代制で採炭が行われ、二番方は15時から23時までの勤務でした。繰込所は坑口のすぐ近くに設けられ、ここで鉱員の出入坑を記録するとともに、坑内での配置や作業手順の説明などを行いました。


倉持 吉之助(くらもち きちのすけ)(1901-1996)

埼玉県南埼玉郡菖蒲町の農家に生まれる。18歳で池上秀敷に師事し、その後上京。1947年(昭和22年)、夕張炭鉱に就職し、坑内作業に従事する。途中、坑内事故に遭い5年間の療養生活を送る。1955年(昭和30年)に定年退職し、苫小牧に移住。苫小牧美術協会会員となる。1958年(昭和33年)の第10回炭鉱絵画展で通産局長賞を受賞。同年の第33回道展、翌年の第34回道展に入選。雅号は桃林子(とうりんし)。
※ 出典:東京都目黒区美術館「文化資源としての炭鉱展」図録(2009年)

本来なら、多くのみなさまにご覧いただけるよう、オープンスペースに展示したいのはやまやまなのですが、何分、振興局の建物は美術館・博物館のような専門施設ではなくて…
・展示に適した環境(日光や湿度の影響を受けない)
・セキュリティ(防犯カメラ、警備員)
・3密回避(新型コロナウィルス対策)
などを考えに考えた結果、絵画は空知総合振興局長室に展示し、このウェブサイトで作品についてご紹介させていただきます。

作品を前に、上木さんからお話をいただきました。

さて、2021年10月28日。報道各社がお集まりの機会に、この炭鉱絵画をご披露しました。
その際、上木さんから、この作品や炭鉱絵画についてお話していただきましたので、その内容と、報道各社との質疑の様子をご紹介します。
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上木さん 炭鉱絵画を展示する機会を設けていただいて大変うれしく思っています。候補作品を数点、リストアップして送ったところ、この「二番方入坑時繰込」を借用したいとお話をいただいて、ああ、やはりこれを選ばれたなと思いました。炭鉱全盛期の夕張炭鉱、その二番方としてこれから坑内の作業に入っていく作業員、繰込所の風景を描いたものです。人数を数えたことはないのですが、おそらく数十人はいますね。

作者の略歴を見ますと、1901年、埼玉県の生まれです。生存されていたらちょうど120歳ですね。苫小牧市で晩年を過ごして、90歳を超えるまで長生きされたのですけれども、この方は戦時中、戦地に行っています。42歳の時に軍属として、太平洋戦争の激戦地となったタラワ島の軍事基地の建設に従事して、そして戦後、45歳の時に夕張炭鉱に就職しています。49歳の時に坑内事故に遭って、両手足のしびれで4~5年の療養生活を送りました。

作品中の右上の文字ですが、「自己」の後の2文字、最初は読めなかったのです。文字ばかり気にしていたのですけれども、倉持さんの略歴を改めて確認すると「退院してから2坑の捜検係になる」と書いてあります。それで、捜索の「捜」に、扌(てへん)に見えますけれども検査の「検」で、この文字は「捜検」だなと。繰込所では、これから坑内に入る人の検査をします。だいたい坑内に持って入るのは弁当くらいです。坑内は火気厳禁なので、火やたばこを持っていないか、「保安」の腕章を付けている黒い服の人が検査をするのです。おそらくこの中に、捜検係に従事した倉持さんご本人がいらっしゃると思います。

ちなみに、坑内へ入る時に、坑口の手前に「自己捜検鏡」という、全身を映す鏡がありました。自分の姿を鏡に映して見て、自らチェックするためのものなのです。こんな具合に「自己捜検」という、この文字の謎が解けたところで、改めて絵を見てみますと、この何十人という炭鉱マンが、入坑前に一服してくつろいでいる様子や、少し緊張感のある表情などが伺えます。

作者の倉持さんは、若い頃に日本画の修行をされていました。坑内事故で怪我をして入院した時に、炭鉱病院の窓から斜坑や夕張の炭住の風景をずっと眺めていたのでしょうね。炭鉱の風景画も描いていますが、おそらく病室の窓から見える景色を描き上げたものだと思われます。
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〔2006年に夕張市美術館で開催された展覧会のリーフレット。ここに掲載された絵画も倉持さんの作品。〕

上木さん 倉持さんに限らず、炭鉱の仕事に従事しながら絵を描いた人は、夕張だけで100人近くいます。油絵、日本画、水彩、それから写真。ジャンルもいろいろです。空知地域では、各地の炭鉱に絵を描く人がたくさんいたようです。資料として「炭鉱絵画展」という緑色のパンフレットのコピーをお配りしましたが、炭鉱労働組合と企業側との共催で、全道の炭鉱から愛好家が作品を持ち寄って、1947年から1959年まで11回、開催されました。この展覧会で入賞したことが励みになって、道展に出品したという経歴の方が多いのも、炭鉱絵画展の特徴です。夕張市にも、畠山哲雄さんという代表的な炭鉱画家がいまして、この方も炭鉱に生まれ育ち、ほとんど独学で絵を勉強して、道展に20歳のころに出展して道展会員になっています。こういう経歴の方が炭鉱絵画を支えてきました。
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〔1957年6月に開催された第9回炭鉱絵画展パンフレットのコピー(上木さんご提供)〕

上木さん 炭鉱ですから、事故や閉山といった悲しい出来事を経て、そこに住んでいた人は土地を離れ、散り散りになってしまいました。こうした炭鉱特有の過疎化の流れは、今日まで続いています。

夕張市美術館は1979年に開館しまして、2012年2月に、雪の重みで屋根が潰れてしまいました。幸い、作品は無事でしたが、建物はなくなり、作品を常設展示する場所もありません。作品は今、夕張市内の学校の空き教室で保管しています。このような機会に、少しでも人の目に触れてこそ、作品自体も息づいていくと思っています。

2007年の夕張市の財政破綻からもう十数年が経ち、これまでの間、他の市町村から応援の美術展を開きたいというお話をいただきました。それで、ニセコ町の有島記念館や岩内町の木田金次郎美術館、小樽市美術館など、毎年のように、50点、60点という単位で作品を貸し出して、展覧会を開催していただきました。昨年度(2020年度)以降、新型コロナウィルスの影響で、そういう声はかからなくなってしまった中で、今回のような機会ができたことを本当に嬉しく思っています。もちろん、絵画作品というのは、本物を目の前で見てこそ醍醐味があります。今回は1点、このような形でのご紹介ですけれども、炭鉱絵画をより多くの方に知っていただく機会になればと願っています。
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〔「二番方入坑時繰込」と上木さん〕

-「作品は本物を目の前で見てこそ醍醐味がある」ということなのですが、今回、この作品を見られるのは限られた関係者で、作品の解説・紹介はウェブサイトでという形になるのですが、そのあたりはどのような思いがありますか。

上木さん インターネットでも、絵画の基本的な情報は得られます。それをきっかけに興味を持っていただければと思っています。常設ではありませんが、夕張市内の限られた場所に何点かは炭鉱絵画を展示していますので、教育委員会にお問い合わせいただければと思います。

-炭鉱画家について、もう少し詳しくお伺いできますか。

上木さん 夕張では昭和30~ 40年代の炭鉱全盛の時に、北炭系や三菱系などの炭鉱各社に、ジャンルも具象、抽象など様々な画家がいました。それぞれのまちに美術協会があって、女性を含め30~40人の会員がいて、夕張の美術協会では、半分近くが炭鉱関係者でしたね。学校の教員だった方も多いのですけれども、炭鉱の閉山で散り散りになって、会員も少なくなっています。美唄や三笠でも夕張と同じように炭鉱会社に勤めていて絵を描いていた方がいました。三笠美術協会は今もあると思うのですけれども、そちらで活躍している人はもう80、90歳になるのでしょうが、その教えを受けた人が会員として残っているかと思います。

-岩彩で描かれていますが、絹本というのは。

上木さん 油絵はキャンパスに描くのですけれども、日本画の場合は画材が絹なのです。それを絹本と呼んでいます。目の細かい絹地の画布のキャンバスです。もちろん紙に描く場合もあります。2009年、12年前ですね、東京の目黒区美術館で「文化資源としての炭鉱展」という大きな企画展がありました。全国から作品を集めて、その時に夕張からは、この作品を含む4点に、炭鉱絵画10点、計14点を出品しました。お客様には、倉持さんの作品が一番わかりやすく、炭鉱らしくて人気があったと大いに評価をいただきました。ちなみに、目黒区美術館の展覧会は、その年に開催された展覧会の中で最高賞を受賞しました。ちょうどこの作品が描かれた1950年代というのは炭鉱が全盛で、夕張にも炭鉱マンが何万人もいたのですけれども、この前、資料を見ていましたら、北の錦酒造では昭和30~40年代に、夕張へ出荷するために日本酒を作っても作っても売れて、酒造りがとにかく間に合わなかったと社長がお話されていました。往事の活気が、この絵からも伝わってくるような気がします。

生あるものへの関心と愛情。炭鉱絵画に込められた想い。

-今回のこの作品は、繰込所の熱気というか、すごく活気が伝わってくるのと、ところどころに絶妙に赤が使われていて、目を引きますね。

上木さん 意識的に、色を散らしているのでしょうね。炭鉱マンは会社支給のナッパ服みたいな作業服ですが、その中に黒い服を着た係員が点在して、絵を引き締めているような印象を受けます。風俗画として見ても、それぞれの人の役割がよくわかります。倉持さんは意識して、面白く描いていますよね。見て飽きない。センスのある絵描きさんだったと思います。

-作者の倉持さんは、50歳近くになってから本格的な制作をされていますね。画家としては遅咲きだったということでしょうか。

上木さん 炭鉱画家という方は、各地で活躍されているのですけれども、健在でも90歳になっています。おそらく、この年代の方たちは、若い頃には集中して絵を描く時間がなかったのでしょう。戦争があって、仕事があって。教員をしながら絵を描いていた方も結構いますが、画材は決して安くありませんので、子育てが一段落して、定年退職してからようやく絵の具を自由に買うことができたという話も聞きました。
倉持さんは坑内事故で療養をして、自由な時間があったのではないかと思います。定年退職してからは苫小牧に移られて、苫小牧美術協会に参加して、ずっと描き続けていたといいますね。

上木さんがご提供くださった「第9回炭鉱絵画展」のパンフレットに、こんなことが書かれています。
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生あるものへの関心と愛情。
戦時中を生き抜いてきた人であったり、落盤やガス爆発、火災など危険と隣り合わせの、暗い坑内で作業に従事している人であったり。炭鉱画家と呼ばれる方々は、創作や文化活動を通じて、命や平和の尊さを見つめていたのかもしれません。

今年の10月16日で、93人もの犠牲者を出した北炭夕張新鉱のガス突出事故から40年という節目を迎えました。
悲しい記憶を刻むことがあった一方で、大勢の人が集まり、活気あるまちを形成し、文化を育んできたのもまた事実です。
より多くの方に、この絵画を通じて、また違った側面から空知地域の歩み、空知の魅力に触れていただけたらと思います。
上木さん、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

炭鉱特有の「繰込所」

ところで。
今回の絵画の題材となった繰込所とは、実際、どんな建物だったのでしょう。
以前、父親が道東の炭鉱マンだったという方から、「子どもの頃、突然雨が降ってきた時に、一番方(7時~15時の勤務)から上がってくる親父を、傘を持って繰込所へ迎えに行った。大勢の人で混雑していた記憶がある。」という話を聞いたことがあります。
どこの炭鉱にも坑口のすぐ近くにあったようですね。

俄然、興味が沸いてきたある日。
たまたま、赤平市にある「炭鉱遺産ガイダンス施設」を訪問。その際、立坑櫓に向かって左隣りにある、古びた建物が目に留まりました。
これって、ひょっとして…
後日、ガイダンス施設の方に伺ったところ、この建物の1階の一角に、繰込所があったのだそうです。
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住友赤平炭鉱立坑櫓は1963年から稼働し、ここの繰込所は住友赤平炭鉱の閉山(1994年)まで使用されていたそうで、空知管内でも現存するものはほとんどないのでは…とのこと。
普段は公開していない内部の様子を見せていただきました。
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絵画が描かれた1950年代より後の建物で、この広い空間にベンチが並べられていました。入坑前の炭鉱マンはここで待機し、捜検を受けてから立坑櫓のある建物へ、地上と地下の2本の通路を通って移動したのだそうです。
建物内には、当時のベンチもいくつか残っています。
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この炭鉱では番方ごとの人数が、一番多い一番方で1450人くらい、二番方、三番方では500~700人くらいだったとのこと。入坑前には鉱員であふれかえり、一服するタバコの煙で室内がかすんでいたのではないか…などと、往事を想像してしまいます。
知れば知るほどに興味深い、繰込所。
繰込所については、後日改めて、深掘りしてご紹介したいと思います。


※ 今回、ここに掲載した作品は夕張市教育委員会へ寄贈されたもので、2009年、目黒区美術館の展覧会においても図録に掲載されています。今回ウェブサイトでご紹介するにあたり、再度ご遺族とも連絡を取らせていただこうとしましたが、連絡がつきませんでした。もしお気づきのことがありましたら、お手数ですが「そらち・デ・ビュー」お問い合わせフォームからご連絡いただけると助かります。

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